君子の道は孰れをか先きにし伝え、孰れをか後にし倦まん
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル
子游曰、子夏之門人小子、當洒掃應對進退、則可矣、抑末也、本之則無、如之何、子夏聞之曰、噫、言游過矣、君子之道、孰先傳焉、孰後倦焉、譬諸草木、區以別矣、君子之道、焉可誣也、有始有卒者、其唯聖人乎、
子游が曰わく、子夏の門人小子、洒掃応対進退に当たりては則ち可なり。抑々(そもそも)末なり。これを本づくれば則ち無し。これを如何。子夏これを聞きて曰わく、噫(ああ)、言游(げんゆう)過(あやま)てり。君子の道は孰(いず)れをか先きにし伝え、孰れをか後にし倦まん。諸(こ)れを草木の区(く)して以て別あるに譬(たと)う。君子の道は焉んぞ誣(し)うべけんや。始め有り卒(お)わり有る者は、其れ唯(た)だ聖人か。
現代語訳
子游が言った。「子夏の門人の若者たちは、掃除やお客への応対などの立ち振る舞いについては、まあよく出来ている。しかし、それらはしょせん、末端業務である。もっと本質の所の、礼とか仁についてみると、ぜんぜん、彼らは出来てはいない。これをどうしたものか」
子夏がこれを聞いて言った。「ああ、言游(げんゆう)は間違っている。君子の道は本と末、どちらを先に伝えるのを貴び、どちらを後にして伝えるのを厭うというようなものでは無い。これを草木にさまざまな種類があって皆違っていることに例えよう。弟子たちも、そのようにさまざまな性格や能力や個性があるのだ。君子の道は欺いてはならない。まだ理解できる段階に到っていない者にやたら高遠なことを問いても、欺くようなものだ。本も末もすべて俯瞰してわかっているのは、聖人くらいだろう。聖人でない弟子たちには、だから掃除やお客への応対などの立ち振る舞いについて、まず教えるのだ」
語句
■小子 若者たち。 ■洒掃応対進退 掃除・お客への応対などの立ち振る舞い。 ■誣(し)う いたずらに高遠なことを説く。あざむく。
前の章「大徳は閑を踰えず。小徳は出入して可なり」|次の章「仕えて優なれば則ち学ぶ。学びて優なれば則ち仕う」